無欠性とは何か
沈黙の力 p277
無欠性というと、いつも宗教的道徳というものを連想すると私(カスタネダ)は思っていたのだった。
「何度も言ってきたことだが無欠性というのは道徳ではない」「道徳に似ているだけでな。無欠性とはわしらのエネルギーレベルの最も有効な利用法にすぎない。勿論それは慎ましさや思慮深さ、素朴さ、無垢、を必要とする そしてとりわけ【内省をなくすことが要求される】こうしたことは全て僧侶生活の手引のように聞こえるがそうではないんだよ (中略)集合点の移動を支配するために人はエネルギーを必要とする。【エネルギーを蓄えるのは自分の無欠性だけなんだよ】」
自分で決めたことは完全に完遂しなければなりません 試験に合格すると宣言したなら勉強しなくてはならないでしょう 健康でありたいというならばお酒は一切飲むべきではありません 私は 怒らないという目標がありますがいいとこ3日くらいしか守れたことがありません 完全無欠でエネルギーを漏らさない そんな人間に..なれたらいいな....
猜疑心
猜疑心とは「何か、おかしいぞ?」と物事に対して疑いの眼差しを差し向けることです
この猜疑心も大切なものです
まず、「気づき」ということが第一に人間には求められています
じゃあこの気付きはどのようなタイミングで現れるのかというと、疑惑を持つときが気付きの現れやすい時であるといえるでしょう
存在の生命体の本質的な気づきと
このハッとした気付きは別物ではありますが
根本的には同じものです
「そんなわけない...」とか「でも他の人はこういってるし...」とか自我は徹底的に気づきを否定して来ますが、これは罠なので引っかからないように気をつけてください
そもそも私達はほとんど何も知らないのです
その知らないということすら分からないのが大多数の私を含めた人類なのです
その中で槍のような鋭さで突き刺さる気付きの光はあなたを幸せへと(何もしないことへと)導いていくことでしょう
ここでの幸せとは 存在→意識→至福
サットチットアーナンダの3つめの至福を指します
知覚と精神を切り離して考えよう
知覚は滑らかで、精神は揺るぎなく
というスローガンを思いつきました
馴染みのない方には知覚と精神は似たもののように感じるかもしれませんがこれは全く別物です
知覚とは言ってしまえば世界の全てです
いきなり訳が分からないと思われるかもしれませんが(^_^;)
実は固いものがたくさんあるこの世も全ては知覚があるだけなのです
精神は意識や知覚に比べるとまだ分かりやすい存在です
これは肉体の延長にある手足のようなもので、肉体を覆うヴェールのようなものです
チャクラとチャンネルを通じてそれは働きます
知覚も精神も訓練を行うことで柔軟な働きをするようになるのです
あたかも、筋肉トレーニングで肉体が活発になるように...
知覚は集合点の移動(固定)が全てです
精神は訓練となるとさっきとは逆で割合複雑です 何度か説明しましたが忍びより等が精神のコントロールに入ります
忍びよりとは自分自身を管理することで、
非情、狡猾、忍耐、優しさという4つの側面をもった平常心、平常状態を維持することです これはまた沈黙の力とも呼ばれる力を発揮する元となります
注釈が入りすぎてどうしても長くなってしまいましたが、どれも重要なことです
何度も覚えなおして、目的をしっかり持ちましょう
呪術の本質を諭す1つの言葉
沈黙の力 p204
ドン・ファン「呪術に手順はないとわしはいつも口を酸っぱくして言ってきただろう 方法も無ければ段階もないんだ 問題になるとすればただ1つ集合点の移動だけだ。それに手順を踏んだ所で移動は引き起こせない。まったくひとりでに起こることの結果なんだからな」
内省の鏡ー自我は自分で壊すことができますが、呪術や魔法の一連のテクニックはただ水が流れるように自然に起こるだけで(重力法則の秘密)自力で何かしようとしているのではないということです
例えば「輝く光を見つけよう」だとか
「完全な沈黙を実現しよう」だとか....
にも関わらず「目的」は必要なのですが..........