アキラの精神世界

明晰夢 瞑想 宇宙全史 など

なぜ、身の回りの家事をする必要があるのか

こんにちは。アキラです。時間が空いたため、無名庵の分割自我復元理論を読んでいます。学びが1つありましたので共有させていただきます。

 

 

・虚空蔵55さんの話に『掃除、洗濯、炊事。身の回りの家事は自分でこなしている。』という彼の発言があります。本文の場所を忘れてしまいましたので、調べ終わったら引用していきます。

 

・私は上の話がイマイチ理解できませんでした。『お金があるなら、メイドさんを雇えば時間の省略になるのではないか?』と考えていました。

 

・この件の納得のいく回答が分割自我復元理論にでてきていたのでご紹介します。

 

・創造力の鍛錬と工夫

【分割自我復元理論 p184 創造力の資質について】
 EO氏が創造性(他人の模倣ではない)について話している場面です

分割自我復元がスムーズに進んでいる女性達が居る。彼女達に共通していることは、実生活で生活の工夫をするという創造性があることである。たとえそれが地味なものであっても、生活のどこかを改善して、工夫しようとしている姿がある。こうした何かを積極的に工夫を施そうとする人は自我復元が順調に実現しやすい。

 

とあります。つまり、魔術的技法の根底にあるイメージ...。つまり創造力を鍛えるためには、家事を疎かにせず、工夫を凝らすことが(芸術のような創造よりはインパクトが減りますが)鍛錬になるということです。私はこれにかなり唸らされました。

 

創造力の鍛錬には家事(特に料理)が推奨されるようです。

 

以上。ありがとうございました。

自分のレベルを測定する方法

なんか見逃していたので私もやっておこうかなと思います。

自分のレベルを測定する方法

①あなたが今一番したいこと
②あなたが今一番嫌いなこと
③あなたが今一番欲しいもの

 を説明する

 

夢見の技法と祈りのミックス

・究極的な奥義として夢の中で五井先生の祈りを祈るという方法があります。五井先生や植芝先生を夢の中で名前を呼ぶことも含めてもいいでしょう。私は一回だけこの経験があります。ものすごく薄いですが。一応覚えているので忘れないようにメモしておきます。

 

ーレッド・カーペットの敷いてあるような高級ホテル。私はその一室にいる。視点が傾いている。どうやらベッドにうつ伏せになっているようだ。ふくよかで派手な女性がドアをぶち破って部屋に入って来る。私はうつ伏せになったまま、その話を聴いている。彼女は怒っているようだ。ベッドになぜか五井先生の写真がばら撒かれる?(意味不明???)意識が五井先生の写真と名前に向く。まだ彼女はプンスカと怒り散らしている。 

ー起床

 

今思い出しても全く意味がわかりませんが^^;、一応これが私が夢の中で五井先生を認識した1回の例です^^;

世界の記述方法について

追記. 宇宙全史掲示板の過去ログが、画像の表示がおかしくなっています。私だけでしょうか??皆さま確認おねがい致します。(画像が超デカデカと表示されていましたら、私と同じ不具合です。)

 

 

 

こんにちは。今回はカスタネダの理性を含む世界の記述方法について復習していきたいと思います。

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上の2つの図をご覧ください。1つめはインターネット上で拾った物です。2つめは呪術の彼方へというタイトルの巻末にある資料です。

細かい点で違いはありますが、概ね2つは同じ意味を示していると思います。

 

私達が世界を記述する方法は8種類ある

また2巻目の一部に私達は8種類の世界の記述方法を持っていることとがドンファンから語られます。その内の1つは理性であり、2つ目は感じることです。残りの8つは説明されていません。

 

図解

まず理性は話すことと繋がっています。これは実際に喋りかけてくるという意味ではなく、通常の例えば石を石ころと認識する方法になります。

 

また話すことは [ 見る(seeing) 夢見る 感じる ]の3種類の方法で意志と接触しています。この意志にふれることで、間接的にナワールを掴むことが可能となります。

 

見ることの注意点

注意点としては、見るというのは実際に目で何かを認識することではありません。それ以上の何かであるということで省略して説明しておきます。私も完全に理解している訳ではありません。

逆に夢見るというのは分かりやすいですね。夢を見ることはそのまま夢見ることです。現実を夢見ることも可能ですが、それは肉体で行われる訳ではありません。

感じるというのを直感と訳すかどうかは微妙なところです。確かにフィーリングが直感になることもあると思いますが、全ての直感が感じることかといわれるとそうは言えないと思います。

 

 

 

石ころは石ころではない

石ころを石ころと認識すること、という概念の対比は、石ころは只の石ころではないということです。これは影を見ると分かりやすいですね。影はただ目で見ると影ですが、実はそれ以上の情報を持っています。見る者の訓練では、影を影以上の物として実際に認識しようとする訓練があります。この場合では、カスタネダが、女性のナワールと一緒に訓練する様子が描写されています。

 

 

沈黙について

瞑想や、沈黙について。

 この話すことを止めることが所謂、【沈黙の力、想念停止】等と呼ばれる概念です。実際細かいテクニックは色々でてきます(例えば、水平線または地平線を眺めることで、トナールに圧倒的情報の洪水を流し、話すことをやめる。等)が、それらはつまりお喋り...通常の世界の描写を止めるということです。瞑想もそのテクニックの一種だと言えるでしょう。何かのショックで一瞬話すことが止まり、世界の記述方法が変わって異次元を見る人もよくあることだと思います。

 

意志について

 意志とは人間の丹田辺りから伸びている一本の触手のことです。実際に描写すると、光り輝く人間の卵から伸びている一本の光輝のように見えるようです。勿論これは見るものの描写であって、我々の目にそう見える訳ではありません。

 

宇宙全史による解説

 ここで分かりづらい 意図・意志・意識について復習しておきます。

 

 

左側 2020/1/7 No.424

①「意識」とはこの現れの宇宙における根源的なエネルギーである。

②「意識」は真我から最初に染み出たもので、その出た瞬間に二元性を発現する。

③オーム宇宙における原初の二元性は、意識が陰陽に分かれた時に発現したとする。

④陰陽に分かれた意識(エネルギー)は、確かに二元性を構築し続けるが、それが陰であれ陽であれ意識自体はあくまでも二元性の範疇にはないともいえる。

⑤原初のオーム宇宙における陰陽の配分は、若干陰が勝っていた。

 

・意識は宇宙に遍満するエネルギーであり、全ての源である。ただ意識自体に二元性はなく、陰陽に分けたために二元性が発現している。


・そして、その意識が二元性の中で目的を持ち、方向性を示すとき、それを意図と呼ぶ。

 

 

 

・ギリギリ二元性を発現していないのが「意識」

・「意図」は意識から出て来るもの

 

 

 

意識に二元性があるのか無いのかという点が分かり難い感じですね。ただ単純に陰陽に分けたから、一応二元性を持っているといった感じです。持たされているというか勝手に白と黒を塗られたみたいな印象がありますね。

 

まとめ

 ・世界の記述方法は8つある。その内の1つが理性である。

 ・認識の樹(私が勝手に名付けました)のような手順で、私達は意志を通じてナワールに触れることができる。

 ・そのためには沈黙が必要である。

 

 

・どっぺんさんとのセッションについて返信

 

どっぺん)【言葉にする限界を超えて表現する詩があるでしょうか。】という一文を思考させていただきます。

 

まずなぜ実存の表現が【詩】であるのか、そこを確信している部分が私(達)からすると分かりませんでした。

確かに、理論的な言葉よりは、芸術(詩や、絵、音楽など)の方が実存を表しやすいような気がしますが、私の場合は確信するまでには至っておりません。

ここでアインシュタイン相対性理論を引用します。 [ E=mc²
私は相対性理論は一切理解できませんが、その美しさ...。スマートさは分かりません。めちゃめちゃ短い訳です。

逆に言いますと実存は何文字で表現できるのか、という仮のお題に対しては【3行以内(100文字以内)】と私は(無根拠ですが)表現できると考えています。

私の方には全く根拠が無いのですが、どっぺんさんが 【実存を表現できる詩があるの??】と質問していることはかなり正しいのではないかと思っています。

質問本文は[

②五感や思考を越えた認識の在り方とは、直観あるいは意味自体が伝わってくるようなものなのでしょうか。

・理性以外の認識力として直感がある。
ここら辺は質問として分かりやすいですね。お答えもスパっと返って来そうな気がします。上は私の解答です。

]です

 

それに対する

[ 言葉にする限界を超えて表現する詩があるでしょうか。]

やはり実存の表現は詩である。というのは王道を行っている感じがします。

 

 

 

そのため、私の解答としては

どっぺん「言葉にする限界を超えて表現する詩があるでしょうか。」

アキラ「(実存を言葉で表現すると)多分短いでしょうね。」

 

こんな感じです。これで合っているのかどうか分かりませんが返答とさせていただきます。ありがとうございました。

どっぺさんの質問

どっぺんさんの質問を、私なりに推敲してみたいと思います。

 

どっぺん
4月24日(金) 21:39 (8 時間前)

現在BBSへ投稿中の原稿です。
これから虚空蔵55様の御回答をいただけると思うのですが、ぜひ皆様からの忌憚なき御指導をこの場でいただければ幸いです。勉強させて下さい。よろしくお願いします。

虚空蔵55様 みわ様

いつも大変深遠な御教示まことにありがとうございます。

先日いただいた「ただ「大元の意識」などという事は書いていないはずです」との御教示が、最初はよく理解できませんでしたが、意識というエネルギーの在り方を考えるに、「本当の意識は、宇宙に遍満するエネルギーであり、全ての源である」「意識自体に二元性はなく、陰陽に分けたために二元性が発現しています」といただいた御教示をさらによく考えますと、これまで私が瞑想の中で、真我への道ではとみなしていた基部がそれに対応するのではないかと思い至りました。私はそれを真我に直結するものと思っており、そこまでの間の道程は全く分かりませんでした。

私の瞑想は現段階で大変未熟ですが、集合点の移動ということが未熟ながらも成立しているところがありますので、それによって、認識の次元が一時的にですが、移動するのだと考えられます。
私がアジズに倣って、SP(State of Presence)と呼んでいる瞑想の対自は、集合点そのものであり、それが移動することで次元の上昇や下降が、認識と共にフラクタル次元として生じるのだと思われます。あるいはフラクタル次元として説明できると表現した方がいいのでしょうか。

 

【いわゆる第三の目、サードアイと呼ばれる物は、それ自体が集合点そのものである。】と解釈しました。

 

 

それは「この現れの宇宙における根源的なエネルギー」ですから、非人称で、ワンネスそのものです。しかし、それは意識である限り、真我ではないことになります。つまり小悟以前にとどまります。私などは千歩手前どころかそこから後ろに落っこちそうな所をうろうろしていますが、EOやニカルガダッタの様な方々であられても、その時分にはまだ真我に還帰されておられなかったということですから、それがとてつもなく果てしない予想のつかない道程だと思います。

質疑応答14で
「追補 上位次元を見る
私たちは上の次元を認識することが出来ないと書いておきました。
ただし、境涯が覚醒間近により上昇し 現象界から離れ、色々見ることが出来るようになりますと、上位次元の景色を実感出来るようになります。
ただ、その風景は現象界とは異なっているのは当たり前ですが、そのためこちらサイドでその「見てきたもの」を表現するのが難しいのです。
例えば、それを何らかの幾何学模様や抽象画像として表してみることは出来ますが 現象界の人たちには チンプンカンプンで意味を持ちません。
これは大事なことで「チンプンカンプン」ということは 単に理解出来ないということだけではなく「認識出来ない」ということなのです。
ですから、本来向こうから持ち帰った印象や情報はキチンと現象界用に翻訳しなければいけないのですが、 それは非常に難しいでしょう。
そもそも感覚器官があちらとは異なり、感覚器官が違うということは、認識が全く違うということなのです。
だから、その辺りを曖昧にしておくと、霊界やあの世、天上界などの様々な齟齬が現象界との間で生じてくるのです。」と教えていただいていることが、わずかながら実感されてきました。

「それを何らかの幾何学模様や抽象画像として表してみる」ことをEOは音楽でもしていたのであろう。EOの語る宇宙そのものも同様であろう」と連想しました。

 

ここは完全に同意します。
【EOの図形や音楽は実存以後の世界が表現されたものである。】
とまとめてみました。

 

 

実存になろうとか、真我になろうとかというエゴの思いを断ち、全てを解き放つ在り方でいると、私の世界が私のいない世界になり、それと対峙する身体感覚や三次元的な外界を伴った二元の様相の自己側をその境地と同質であることを認識していると同化して一つの世界になりました。
それはただあるだけですが、EOの描いた幾何学模様のようなものを生じさせることもあります。

以前、2017/6/10 No.3428で、
「あなたが体験したものは実存(もしくは真我)です。
「ただ真我の一瞥は稀有な事ではありますが、真剣にここで学んでおられる方たちには次々と顕現して来ることになっています。そして一瞥の後、そこからどこまでその精度を深めていくか、一瞥の記憶を保持しつつ更なる真我の体現を求めていくことがこれからのあなたの課題になります」
また他の箇所で
「「実存」或いは「真我」どちらでも同じなのですが、それを表現する手段はこの世にはありません。五感を脱して初めて見えてくる領域です。
そして五感を通じて見る世界とは「エゴ」そのものですから、エゴからの脱却が「完全覚醒」にとっていかに大事かがわかると思います」
「あなたもそうですがすべからく人はエゴを保持したまま真我(実存)に入ることは出来ません。
「何度でもいいますがエゴの希釈は重要な(ほぼ唯一のメソッドになります。」
「その覚醒を得たEO氏でさえ、今生では簡単に覚醒したように見えますが、実際は彼の集合魂を含めて、無数の転生において想像を絶する修行を重ねて来ています」
「まず「実存」とは「真我」と「生きる世界」の境界線上にある境涯です(これはちょっと難しいので「宇宙全史」第二巻をお持ちください)。「実存」から「意識」がほとばしり、「意識」から「意志」が生まれています」
「確かに意識は至高なるものの身体ですが、その前に至高なるもの(真我)から意識というエネルギーが出て来るのです。そしてそこ(意識)から意志が発現しています」
「「瞑想」のメソッドとしての位置づけは、「注意力の特化」ということがいえます。
日常の注意力である通常の認識力とは異なり「夢見の注意力」というものを獲得するために「瞑想」は行われます。
もっとわかりやすくいいますと(すでにどこかで書いておきましたが)「覚醒しながら眠る」或いは「眠りながら覚醒している(気づいている)」というメソッドです。
このような「特殊な注意力」の獲得は「完全覚醒」には欠くことのできないファクターとなります」
「ただ何度もいいますがこの瞑想は覚醒に至る一つの道ではありますが、一つの段階であることも事実なのです」と詳しく御教示いただいているところですが、

 

ここ3ヵ月の瞑想から、フラクタル次元、時間、空間に関して極めて大雑把ですが、浮かんできたことがありますので、あらためて御指導をお願い申し上げます。
私の考えの誤謬を御指摘いただきたい一心です。恥を忍んで投稿します。

スーザンさんの素晴らしい研究とそれに対する虚空蔵55様の御教義を大変楽しく拝読した後の瞑想
「実存はまだしも、真我の一瞥というものは、この五感を超え、時間と空間というカントの純粋理性批判で認識の基盤ともされているそれが無いということであれば、それはそもそも表象することが不可能になり、瞑想は、中途半端な身体感覚の残存の中で不完全な只管打坐に置かれ、漂わざるを得ない。
しかしそれでもその状態の方が以前よりも実存の次元としては深いように感じられる。
一体これを記述することが、数学と物理学で出来るのか。
哲学は言葉で語られざるを得ないものであれば、もうすでに二元性の制約はまぬがれず、それを表現することはほぼ不可能である」

「静かに祈りを重ねていると、意識が静寂になっていき、エゴのあるところが実存に置き換わっていき、全てが均一のワンネスになった。真我に向けて瞑想を深めていくと、涅槃寂静のような境地に達した。究極の暗黒。空間も時間もない」

「実存においても、体験と一体化しているが、体験を観察できるので、対自と対他が共存できる。空間と時間について観察してみようと思い、やってみたが、空間は三次元空間とは異なり、何かうねりか波か振動のような異種性がある。認識の次元が変わることに連動しているのであろうか。時間は流れているようには感じられないが、思考や何かの動気が生じると発生するように思える。カントが純粋理性批判で、空間と時間をアプリオリにしているのは、これが枷であったからなのだろうか」


【カントが空間と時空を認識(理性)の基盤にしているのは、これが認識にとって枷となっているからである。】と私は解釈しました。

【認識にとって時間と空間は枷である。したがって、認識は時間と空間を超越している。(認識は時空を内包している。)】
と私は受け取りましたが、ここは少し解釈が違っているかもしれません。

 

 

「五感では表象できないが、瞑想で、フラクタル次元の中を集合点は移動して、エゴを脱却する動きがとれる。そこからの脱線はしかし容易で、マインドが入れば、思考が展開され、それに気づくといずれ通り過ぎていく。
「五感で表象できない所で、一体空間とか時間とかが認識されることがそもそも成り立つのか。夢における時間と瞑想で無我になった時の時間はその様相が酷似している。身心脱落 只管打坐のみ。現象学的還元。デカルト=フッサールスクール。分析ではなく総合」

 

【空間や時間を認識できないため、それらは実在ではない。】という事はシンプルで分かりやすいと思います。
【時間や空間は存在しない。】という真理は数多の場所で名言されていますから、ここは恐らくその通りだと思います。

後すいません、デカルト=フッサール スクール。って何ですか?

 

 

「三次元とはおそらく共同主観性の産物で、物象化である」

「今日はSPが自分の中心に位置し、それが瞑想による集合点の移動によって、フラクタル次元、認識の次元が変化していく様を体験したように感じた。
マインドがない。それは実存そのもので、道元の心身脱落、只管打坐の境地とバーナデットの自己喪失の体験が実存であることが実感される。

フッサールの発生的現象学の記述様式が援用できるのではないか。しかし三次元の知覚による認識に翻訳してはいけない」

「認識が出来ないので、表現は出来ないが、そこに集合点が移動できること、本来真我から意識を経てこの現在に至っていること。
時間は何かが動くことから生じるのではないか。認識の次元が縦横に動くこととパラレルではないか。何かが展開するから時間が生まれるのであろう。歴史が生まれるのだ」

「表象がないのと、無を表象するのは違う。表象がないと停滞してしまう」

「瞑想は最初ごみごみしていて、そのうち静寂になった。真我とは表象されないものであるから、それを無として捉えることもできない。一瞥が可能なのは、真我になっていないからであり、真我に到れば、今の意識は溶け込むように消えてしまう。語ることができる間は実存の境地である。何かを何らかのように感じているが」

「今日は真我に真正面から向かい、いくつかの局面を経て、アジャシャンティのいう空になった。途中、時間について考察した。

「それは.真我から、意識が生まれ、陰陽の二元に基づく動きに伴って、それに内在する時間が、生じ、周りとリンクするのか。時間だけ単独では存在せず、何かの生成や展開が成立することで時間が語られることになるのか。

「途中、一面漫画の世界になった。様々な絵が現れては消えていった。自在な境地。その脈絡が見えず。その空と自己が一体となる」

 

カスタネダが夢見に入ったときに、【絵画のような世界】が表れた場面がありますが、それを思い出す表現です。まさに意識の階段を登りつつある。ということではないでしょうか。

1000歩手前と言われておりますが、1000歩進めばそこが真我ということです。私達からすると全く悲観することではないと思います。

 

 

「世界平和の祈りを続けていると、すっと高次元の波動に入れる感じがあった。そういうことが何回か繰り返され、実存に入れたと思う。この感じが瞑想の中であるということは、フラクタル次元に関して、スーザンさんが質問していたときの御回答で、一次元がいくら進んでも点であるが、その軌跡が上位次元をたどり、一次元であるが次元は上昇しているという虚空蔵55様の御教示に結びつく。一次元であるが上昇していることが一次元のものに分かるということで、集合点の移動が起きているものと思われる」

「認識と次元はパラレルで、1次元2次元3次元の今までの概念規定を変更する必要があること。次元の中のフラクタルな動きが時間を作り出していることなどを考えた」

「今日の瞑想は今までにない展開を含んでおり、大変大きな出来事に思う。いつものように瞑想を深めていったら、エゴが薄くなり、意識に達した。意識であるから対自が可能で、自分の身体意識も共存しながら、観察をしていた。フラクタル次元であるので当たり前であろうが、認識によりどのようにでも変容するようで、大変危険なものだと思われる。意識そのものに同一化する際のワンネスはすごいもので、究極の無のようである(大げさ)。なぞらえるのは僭越であるが、バーナデットやEOが言及している自己喪失や無はこの意識への同一化で体験するものと考えられ、それは実存へと通じて行き、フラクタルな次元であるのだろう」

「実存はフラクタル次元で、自分の認識により様相が変わると考えられる。であるから、誤解に次ぐ誤解、誤謬に次ぐ誤謬と言うことが起こりえるので、正しい方向性を示す指導、情報がとても大切に思われる。自分の認識が間違っていても、気づかなければそれはどんどん展開していくので、真我とは全く異なるところへ到達する危険が大きい。というか、導きがなければ不可能だ」

「善でいないといけないという姿勢が強迫的に身についている。陰陽の二元性からその前の本源的な意識になり、それが真我に帰る時、全ての記憶が無になるのか。
今日は途中から真我の一瞥に包まれて、無になった。後半、性のカルマが現れてきて、陰の部分であると認識した。私の一番底に定着するものがある。過去からのものが糸を引くように付いていて、それがちぎれて無くなっていく。私はこの真我にとどまる。この糸は不安と結びついている。であるから、エゴを表象しているのだろう」

長すぎて申し訳ありませんでした。まとまりがなくて申し訳ありません。

現状、真我の一瞥まで瞬間行かれたとしても維持が出来ません。私も小学校から中学までは数学少年、理科少年で、大好きな科目でしたが、高校で見事に落ちこぼれ、高三の時は数学の出来ないクラスに選抜されていました。スーザンさんの御投稿を読んで感動し、昔の血が騒いで、時間に関する本をあれこれ取り寄せて見たのですが、とても歯が立たないので、残念ですが、その領域に口を出すのは慎みます。

質問です。

①以前パラレルワールドに関する御教示で、
「さて精神世界の中では全く語られることのないマイナーな概念の大雑把な説明をしてきました集合点が移動することで私たちの認識は変化します(この移動が私たちの世界移動と同じ意味つまり知覚が変わりますので、認識が変わり、世界が変わっていきます。
その変化は単に「違ったように見える」というようなものではなく、明確な集合点の移動は世界が変わるという状況をもたらします。
その結果私たちはこの身このままで別な世界に移動し(本当は移動するわけではなく、世界がなのですが)、この世界からは消えてなくなってしまいます。
そういう劇的な変化をもたらすのが集合点の移動なのですが、この集合点の移動にも2種類ありまして、
「縦方向の移動」通常私たちのいうところの上下の次元移動
「横方向の移動」これが並行世界の横方向の世界です
そして集合点の縦方向とは、集合点が身体の内部方向へ移動することであり、横方向とは身体の表面上だけをウロウロする移動になります。
この「身体の表面上の移動」という表現がわかりやすく。パラレルワールドの横の世界とは世界線上にありながらも異なる世界構造を有しているのです。
私たちが経験する一般的な集合点の移動は夢を見ている時です。この時集合点は移動しやす明断夢などを見ている時は結構あちこち動いています。
それを起きている時に移動させる技術がドン・ファンたちの技なのです(膜想はその中の一つの静的なパターンです)」

と教えていただいておりますが、私ごときの瞑想でも、それを深めることで、次元における時間の様相の差異を探求する道が、五感を越えてひらけていくのでしょうか。時間も空間もない世界で、五感に閉じ込められている我々が瞑想を通して何かをつかむことが出来る可能性、条件について御教示をお願い申し上げます。

これを【時間や空間の無い世界で、私たちが何かを知ることは可能であるか。】と解釈しました。

 

 

②五感や思考を越えた認識の在り方とは、直観あるいは意味自体が伝わってくるようなものなのでしょうか。

・理性以外の認識力として直感知がある。

ここら辺は質問として分かりやすいですね。お答えもスパっと返って来そうな気がします。上は私の解答です。

 

 

③エネルギーから万象は生じていると考えられますが、上の上のそのまた上の方から降りてくるものとは、意思でも意識でもないのであれば、意味のようなものなのでしょうか。

ここは意図の間違いですか?もしくは意志?それとも「意思や意識よりもっと薄い意味のようなもの」でしょうか。「意味」という単位のエネルギーは初出ですね。

【より薄いエネルギーの単位として、何か新しい表現が欲しい。例えば意味。】という感じでしょうか。

 

 

④陰陽の二元性を越えるということは、善だけではなく、善悪を超越した在り方に帰還しなければいけなくなるのでしょうか。

ここは普通に質問通りではないでしょうか。

おそらく【慈悲と善の違いは何か】

という奥義に挑戦しておられるのだと感じます。

 

 

⑤人間のスピリットに報いるということや、戦士として心ある道を行くことについても、善悪を越えた在り方があるということになるのでしょうか。

⑥陰陽の陰が少し多いことで、力動が生じて、陽が展開していくのではないか。陰始はそのために必要な因子だったのではないかなど、あれこれととりとめのない考えは浮かびますが、善悪の二元性を越えることに関して、理解が及びません。これについて、御教示いただきますようよろしくお願い申し上げます。

虚空像55様 みわ様 
この脳天気な質問をどうぞお許し下さい。
大変な状況の中ですが、変わらず一層精進する所存です。何卒よろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。

五井先生 月読之大神 EO いつもまことにありがとうございます。

 

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私なりに推敲するとすればこのような感じでしょうか。
思ったよりは少なかったなと思います。
ただし虚空蔵55先生が、カントの純粋理性批判や、デカルトフッサールを知っているかどうかという点は疑問でした。
あまり専門的な哲学用語を用いない方が分かりやすいのではないか?という点が私の気になったところです。

 

また私の瞑想の経験不足のため

対自...対自分。気付きのこと
対他...対他者。見えている世界のこと

ここがちょっと分かりませんでした。
大体こんなイメージで合っているでしょうか。

 

私の推敲は以上です。貴重な経験をありがとうございました。 

 

追記1.
「縦方向の移動」上下の次元移動 
「横方向の移動」並行世界の横方向の移動

集合点の縦方向とは、集合点が身体の内部方向へ移動することであり、横方向とは身体の表面上だけをウロウロする移動になります。

・集合点の縦移動は内部へ進む移動である。
・集合点の横移動は表面の移動である。

何故だか分かりませんが、この2点は重要だと思ったので繰り返しておきます。何故大事だと感じるのか私もよく分かりませんが...。

 

 

追記2.海さんのメールにある [  ALL  ] という実存以後の世界の名前は、とても格好良くて素敵ですね。

 

 

追記3.今手元に資料が無く大変申し訳ないのですが、理性以外の認識力というのはカスタネダの著書に図形が出てきます。生命の樹に似ているんですよ。google検索で拾った仮のものを貼っておきますね。

後で原文の写真を貼ります。

理性以外の認識力は直感を含めて8コ?くらい?あったような気がします。

 

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認識の樹