こんにちは 津田さんです 今回は全否定とは何か ということについて考えていきたいと思います
私は宇宙全史の掲示板で全否定という言葉をみたときに
真っ先にこれが思い浮かびました
「実存は全否定である」皆さんはこの言葉を真実だと思いますか?
ちなみに私は全く正しいと思います
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※時間がない方は赤字だけでも追いかけてみてください
引用元:「私は在る」著ニサルガダッタ・マハラジ
Q=質問者
A=ニサルガダッタ・マハラジ
で置き換えています(※内容を一部省略しています)
Q「もし実在が私の本性ならば、どうして用意ができていないということがありうるのでしょうか?」
A「用意ができていないのは、恐れているからだ。あなたは自己のアイデンティティを失うのが怖い。すべてをあきらめなさい」
Q「私は今から今へと進んでいるのです。私はまったく動いてなどいません。他のすべては動いても、私は動きません。」
A「認めよう。だが、あなたのマインドが動いている。」
Q「もしそれが今なら、なぜ私は気づかないのでしょうか?」
A「あなたがそれに気づかないという考えに固執しているからだ。」
Q「私の不満はひとつ、なぜ私はあなたの見ていることを見ないのでしょう?あなたは賢く、私は愚かです。」
A「もしあなたが愚かだということを知っているならば、あなたはまったく愚かではないのだ。」
Q「自分が病気だと知ることがそれを癒さないように、自分を愚かだと知ることは私を賢明にはしません。」
A「あなたが病気だと知ることが、健康になることのはじまりではないかね?」
Q「いいえ、違うのです。比べればわかります。あなたが主張することを私が理解できないとき、私には何かが欠けているということを知るのです。あなたは私について本当に素晴らしいことを語ります。あなたは私を究極の実在、すべての存在のゴールとその源と同等だと言います。私はただ無視するだけです。なぜなら、私自身は欲望と恐れの小さな包み、苦しみの泡、暗黒の海中の、意識の一瞬のひらめきだと知っているからです。」
A「苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去った後もあなたは残る。はかないのは苦痛であり、あなたではない。」
Q「すみません。しかし、私にはあなたの見るものが見えないのです。私はあなたを容認も否定もしません。あなたの言われることは聞きます。ただ私はそれを知らないのです。」
A「今、あなたは意識がある。そうではないかね?」
Q「どうか、以前と以後については聞かないでください。私は今のことだけを知っているのです。」
A「それで充分だ。あなたは意識している。それをつかみなさい。」
Q「意識でも無意識でもない純粋な存在状態を、どのようにして知るに至ったのですか? すべての知識は意識のなかにのみ存在するのです。マインドの停止といった状態はあるかもしれません。そのとき意識は観照者として現れるのでしょうか?」
A「観照者だけが出来事を記録する。マインドの停止状態では、「私は在る」という感覚さえも消え去る。マインドなしに「私は在る」はないのだ。」
Q「観照者は残るのでしょうか?」
A「観照者は単に体験の存在と不在を記録するだけだ。それは、それ自体では体験ではないが、「私は観照者だ」という思いが立ち現れたとき、それは体験となる。」
Q「私が知っていることといえば、マインドはときどき作用し、ときどき止まるということです。精神的沈黙の体験を、私はマインドの停止と呼んでいます。」
A「それを沈黙、または虚空、あるいは停止とでも呼ぶがいい。事実は体験者、体験すること、体験の三つが不在だということだ。観照のなか、気づきのなかでは、自意識、あれやこれとしての存在の感覚はない。自己同一化されない存在が残るのだ。」
Q「それは無意識の状態なのでしょうか?」
A「それは何とでも関係している。それは対極のものだ。それはまた、すべての対極の中間であり、その彼方でもある。それは意識でも無意識でもなく、その中間でもその二つを超えたものでもない。それはそれ自体で在り、体験やその不在といった何かとの関係はない。」
Q「なんと奇妙な! あなたはそれが体験であるかのように話をします。」
A「私がそれについて考えたとき、それは体験になるのだ。」
Q「目に見えない光が花に遮(さえぎ)られて色となるように、それは体験となるのでしょうか?」
A「そうだ。それは色のなかにあるが、色そのものではない。」
Q「古くからおなじみのナーガールジュナ(竜樹:りゅうじゅ)の四重否定です。これでもなく、それでもない、その両方であり、そのどちらでもない。めまいがしそうです! 」
A「あなたの困難は、実在を意識の状態と考えることから生じるのだ。 あたかも実在が多様な尺度をもった属性か特質かのように、あなたは「これは真実で、あれは真実ではない。そしてこれは部分的に真実で、部分的に偽りだ」と言う傾向がある。」
Q「私ならこう言うでしょう。結局、意識は苦痛をともなったときに問題となるのです。永遠の至福の状態では、質問は起こりません。すべての意識は快楽と苦痛の混合なのです。なぜでしょうか?」
A「すべての意識は限定され、そしてそれゆえ苦痛に満ちているのだ。意識の根底には体験への衝動という欲望が横たわっている。」
Q「無意識の至福に何の価値があるのでしょうか?」
A「意識でも無意識でもない、実在だ。」
Q「実在は真の存在、純粋な意識、無限の至福と描写されています。それが苦痛とどう関わってくるのでしょうか?」
A「苦痛と快楽は起こる。だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。」
Q「これらはみな疑いなく、たいへん興味深い話です。しかし私のゴールはもっとシンプルなものです。私は人生において、より多くの快楽とより少ない苦痛が欲しいのです。どうすればいいのでしょうか?」
A「意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。」
Q「これらすべてが私にとって何だというのでしょうか?それは私を満足させてはくれません。」
A「あなたは誰だろうか? 誰が不満なのだろうか?」
Q「私は苦痛と快楽の人間です。」
A「苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。苦痛と快楽は、至福の海の波の頂きと谷間だ。その底深くには完全な充足があるのだ。」
Q「あなたの体験は本当に不断のものでしょうか?」
A「それは時を超えた、不変のものだ。」
Q「私の知っているのは欲望と苦痛への恐れだけなのです。」
A「それはあなたが自分自身についてそう考えるだけだ。やめなさい。」
Q「正直なところ、私にはすべてがマインドによってつくられたという説明が信頼できません。」
A「あなたがマインドのなかに立場を置くかぎり、あなたは私をマインドのなかに見るだろう。」
Q「言葉は理解するために何と不適切なのでしょう!」
A「言葉なしでは、理解する何がそこにあるというのだろうか? 理解する必要は誤解から起こるのだ。私の言うことは真実でも、あなたにとっては、それはただの理論となってしまう。どうすれば、あなたはそれが真実だと知るようになるだろうか? 聞きなさい、覚え、熟考し、視覚化し、体験しなさい。あなたの日々の生活においてそれを生かしなさい。私に対して忍耐強くありなさい。特に自分自身に対して忍耐強くありなさい。なぜなら、あなたがあなたのただひとつの障害だからだ。」
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実在とは何か
まずこの質問は「実在とは何か?」というところからはじまります
その話の中で質問者が「龍樹の四重否定」という概念のことを喋っています
「これでもなく
それでもなく
その両方でもあり
そのどちらでもない」
これは全否定をあらわす文章として、とてもわかり易いと思います 否定が4つ並んでいますね
中々難しい文章です
人によってはこのやりとりだけでも目覚めてしまうのではないでしょうか
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とても濃い内容ですね
探求者も人間味のあふれる方で、多数の葛藤を抱え、脇道にそれながらも、真実を追い求めています
内容は読みづらいのでかなり端折りました できれば原文をご参照ください