アキラの精神世界

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忍耐力について

こんにちは 津田さんです

今日は私がもっとも不足していると感じる要素、「忍耐」について考察していきたいと思います

 

 

忍耐力とは

忍耐力とはなんでしょうか

wikipediaによれば 

忍耐 - Wikipedia

忍耐とは、苦しさ、辛さ、悲しさなどを耐え忍ぶこと。例えば、自分に不都合なことなどをひとにされても、暴力的な仕返しをしたり、現実逃避したりしないなど。忍耐する力を「忍耐力」、忍耐力があることを「忍耐強い」と言う。 忍耐は、四元徳のひとつとされている。

とあります

また忍耐力が強化されると忍従というものに変化するようです

 

 

これは精神世界で特に重要な4つの形質のうちの1つです

(狡猾さ、非情さ、優しさ、忍耐)

  

私は忍耐力がない

大きな声ではいえませんが、私は忍耐力がないと思います

それは仕事が続いたことがあまりなく、不登校の経験もあるからです

 

忍耐力を形成するためには

忍耐力を形成するためにはどうすれば良いのでしょうか

1つは目標を持つということが大切だと思います

これは「信じる」という力が必要で、目標が抽象的なものであったとしても、自らの運命を信じて行動していくことが必要です

 

無力さをもたらす黒い穴

私はよく目撃するのですが、一定の努力をはじめるとかならずこの黒い穴が見えるようになります

それは「どうせこんなことをやっても無駄だ」「これが何の意味になる」「きっと成果を得ることはできないだろう」といったネガティブで、力を奪うものです

私は大体この暗い穴に引きずられて、力を発揮することができません

一体この無力感がどこからやってくるのかはわかりません

また反対にポジティブな存在をみると、羨ましくなることがありますが、それはこの無力感(暗い穴)があることが原因となっているのではないでしょうか

いっその事何も考えることがなければ、目標を途中で誤ることもないのですが、それさえできないのが今の有様です

 

ポジティブな神々

いわゆる精神的覚醒を果たした存在というものは、そうじてポジティブな側面をもっています。日常が辛いものであったとしても、決してあきらめることなく、毎日気を楽にして過ごしている方が多いようです 

人間の階層を決定している要素の1つに「執着」というものが存在しています

人間は善悪で地獄に落ちるのではなく、執着の強さで階層が決まるということです

私も地上で日々暮らしていてとても難しいと感じているのですが、毎日を後悔無く生きることは中々大きな課題だと思います

 

幽界へのアクセスする方法

最近実感していることなのですが、予知夢まではいかないのですが、デジャブを経験することがよくあります

特に重要な情報などが見えることは全くないのですが、突然知りもしない経験が見えてくることがあるのです

デジャブを経験したことのあるひとは意外と多いのではないでしょうか

どうやってやっているのかはよくわかりませんが、このデジャブを目撃したときは、その現象が上位の世界(幽界や霊界など)で発生しているのではないでしょうか

つまりこれは意図しているといいかえることもできると思います

なぜ人間にこんなことが可能なのかはよくわかりませんが、デジャブが起きた時はそれを繰り返し思い出してみることは良いことだと思います

 

選択と結果

私たちは日々選択をしています

一見すると選択はそれを選んだ時に確定するかのように見えます

しかし、どうやらそうではないような気がするのです

例えばデジャブを見てその3ヶ月後に具体的な現象があらわれたとします

その場合その未来の現象の発生が確定するときは、デジャブを見た時なのではないでしょうか

 

 

忍耐とは具現化するまで耐え抜くこと

波動の軽い世界であれば、想像したことはすぐに実現することができます しかし、地上はそうではありません 行動を起こしてから結果が伴うまでに時間がどうしても必要になってきます(最近はそれも随分早いようになったみたいです)この『思いつきの発生から、現実世界での具現化までの時間』が忍耐の本質なのではないでしょうか

 

「トンネルを掘っていたとしても、開通するまでやらなくては意味がない 途中であきらめてしまっては、光を浴びることはできない」

このような表現を先生はされていたと思います

 

このタイムラグを越えるエネルギーを忍耐と呼ぶのではないでしょうか

 

信じられるかどうか

忍耐の全ては信じられるかどうかにかかっていると思います

場合によっては具体的な目標さえあたえられません

五里霧中の中で不安と葛藤にまみれながら突き進んでいくことができるか...

そんな冒険を私たちは日々行っているのだ、ということではないでしょうか