アキラの精神世界

よりよく生きるために精神世界を学んでいこう!

「全否定」とは何か(ナーガの四重否定)

こんにちは アキラです 今回は全否定とは何か
ということについて考えていきたいと思います
私は宇宙全史の掲示板で全否定という言葉をみたときに
真っ先にこれが思い浮かびました

「実存は全否定である」皆さんはこの言葉を真実だと思いますか?

ちなみに私は全く正しいと思います

 

この反対の概念として「全肯定」という概念があります
分かりやすい例で言えば、「無条件の愛」と呼ばれるものが全肯定です
どちらが先とか後だとかはよくわかりません

 

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※時間がない方は赤字だけでも追いかけてみてください 

 

引用元:「私は在る」著ニサルガダッタ・マハラジ

 

 

Q=質問者
A=ニサルガダッタ・マハラジ
で置き換えています

 

Q「もし実在が私の本性ならば、どうして用意ができていないということがありうるのでしょうか?」
A「用意ができていないのは、恐れているからだ。あなたはあなたが何であるかを恐れている。全体性があなたの目的地だ。だが、あなたは自己のアイデンティティを失うのが怖い。これが幼稚さだ。あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついているのだ。すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。それ以外何も存在をもってはいないのだ。これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。」

 

Q「もちろん、「私は在る」であり、また「私は知る」でもあります。そして、私は誰それであるということを知っており、身体の所有者であり、他の所有者との多様な関係のなかにいるということを知っています。」A「それはすべて、今のなかに持ちこまれた記憶なのだ。

 

Q「私が確信できるのは、今あることだけです。過去と未来、記憶と想像、これらは精神的状態です。しかし、それらが私が知るすべてであって、それらは今在るのです。あなたはそれらを放棄するように言いますが、いったいどうやって今を放棄できるのでしょうか?」
A「あなたはいやおうなく、つねに未来のなかに進んでいるのだ。」

 

Q「私は今から今へと進んでいるのです。私はまったく動いてなどいません。他のすべては動いても、私は動きません。
A「認めよう。だが、あなたのマインドが動いている。現在のなかで、あなたは動であり不動でもある。あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。マインドを裏表にひっくり返しなさい。動を無視しなさい。そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しかし岩のように確固たるものとして見いだすだろう。」

 

Q「もしそれが今なら、なぜ私は気づかないのでしょうか?」
A「あなたがそれに気づかないという考えに固執しているからだ。その考えを捨て去りなさい。」

 

Q「それは私を気づかせてはくれません。」
A「待ちなさい。あなたは同時に壁の両側にいることを望んでいる。それはできる。だが、壁を取り去らなければならないのだ。あるいは壁とその両側はひとつの単一の空間であり、そこに「ここ」と「そこ」という観念は適応しないということを自覚しなさい。」

 

Q「比喩は何も証明しません。私の不満はひとつ、なぜ私はあなたの見ていることを見ないのでしょう、なぜあなたの言葉は私のなかで真実として響かないのでしょうか? ということです。これくらいは教えてください。ほかのすべては待てます。あなたは賢く、私は愚かです。あなたは見て、私は見ません。どこに私は智慧を見いだせばよいのでしょうか?」A「もしあなたが愚かだということを知っているならば、あなたはまったく愚かではないのだ。

 

Q「自分が病気だと知ることがそれを癒さないように、自分を愚かだと知ることは私を賢明にはしません。」
A「あなたが病気だと知ることが、健康になることのはじまりではないかね?」

 

Q「いいえ、違うのです。比べればわかります。仮に、私が生来盲目であって、あなたは物に触れることなしにそれを知ると私にいいます。私は触れなければなりません。私は見るということの意味を知らずに、自分が盲目であることに気づくのです。同様にあなたが主張することを私が理解できないとき、私には何かが欠けているということを知るのです。あなたは私について本当に素晴らしいことを語ります。あなたによれば、私は永遠で、遍在し、全知の、至上の幸福であり、存在するすべての創造者、維持者、破壊者、すべての生命の源、存在の本質、神、そしてあらゆる創造物にとっての最愛の者だということです。あなたは私を究極の実在、すべての存在のゴールとその源と同等だと言います。私はただ無視するだけです。なぜなら、私自身は欲望と恐れの小さな包み、苦しみの泡、暗黒の海中の、意識の一瞬のひらめきだと知っているからです。」
A「苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去った後もあなたは残る。はかないのは苦痛であり、あなたではない。

 

Q「すみません。しかし、私にはあなたの見るものが見えないのです。生まれた日から、死ぬ日まで、苦痛と快楽は人生の模様を織り込んでいくでしょう。誕生以前と死後の存在について私は何もわかりません。私はあなたを容認も否定もしません。あなたの言われることは聞きます。ただ私はそれを知らないのです。」
A「今、あなたは意識がある。そうではないかね?」

 

Q「どうか、以前と以後については聞かないでください。私は今のことだけを知っているのです。」
A「それで充分だ。あなたは意識している。それをつかみなさい。あなたが意識していない状態がある。無意識の存在と呼ぶものだ。」

 

Q「無意識ですか?」
A「意識と無意識はここではあてはまらない。存在は意識のなかにある。本質は意識に依存しない。」 

 

Q「それは虚空でしょうか? 沈黙でしょうか?」
A「なぜ言葉巧みになるのかね?存在は意識に浸透し、そして超越する。客観意識 純粋な意識の一部分であり、それを超えることはないのだ。」

 

Q「意識でも無意識でもない純粋な存在状態を、どのようにして知るに至ったのですか? すべての知識は意識のなかにのみ存在するのです。マインドの停止といった状態はあるかもしれません。そのとき意識は観照者として現れるのでしょうか?」
A「観照者だけが出来事を記録する。マインドの停止状態では、「私は在る」という感覚さえも消え去る。マインドなしに「私は在る」はないのだ。

 

Q「マインドがないということは思考がないということです。思考としての「私は在る」は静まり、存在の感覚である「私は在る」は残ります。」A「マインドとともにすべての体験は静まる。マインドなしには体験者も体験もありえない。」

 

Q「観照者は残るのでしょうか?」
A「観照者は単に体験の存在と不在を記録するだけだ。それは、それ自体では体験ではないが、「私は観照者だ」という思いが立ち現れたとき、それは体験となる。」

 

Q「私が知っていることといえば、マインドはときどき作用し、ときどき止まるということです。精神的沈黙の体験を、私はマインドの停止と呼んでいます。」
A「それを沈黙、または虚空、あるいは停止とでも呼ぶがいい。事実は体験者、体験すること、体験の三つが不在だということだ。観照のなか、気づきのなかでは、自意識、あれやこれとしての存在の感覚はない。自己同一化されない存在が残るのだ。」

 

Q「それは無意識の状態なのでしょうか?」
A「それは何とでも関係している。それは対極のものだ。それはまた、すべての対極の中間であり、その彼方でもある。それは意識でも無意識でもなく、その中間でもその二つを超えたものでもない。それはそれ自体で在り、体験やその不在といった何かとの関係はない。」

 

Q「なんと奇妙な! あなたはそれが体験であるかのように話をします。」
A「私がそれについて考えたとき、それは体験になるのだ。」  

 

Q「目に見えない光が花に遮(さえぎ)られて色となるように、それは体験となるのでしょうか?」 
A「そうだ。それは色のなかにあるが、色そのものではない。」

 

Q「古くからおなじみのナーガールジュナ(竜樹:りゅうじゅ)の四重否定ですこれでもなく、それでもない、その両方であり、そのどちらでもない。めまいがしそうです! 」A「あなたの困難は、実在を意識の状態と考えることから生じるのだ。 あたかも実在が多様な尺度をもった属性か特質かのように、あなたは「これは真実で、あれは真実ではない。そしてこれは部分的に真実で、部分的に偽りだ」と言う傾向がある。」

 

Q「私ならこう言うでしょう。結局、意識は苦痛をともなったときに問題となるのです。永遠の至福の状態では、質問は起こりません。すべての意識は快楽と苦痛の混合なのです。なぜでしょうか?」A「すべての意識は限定され、そしてそれゆえ苦痛に満ちているのだ。意識の根底には体験への衝動という欲望が横たわっている。」 Q「つまり、欲望なしに意識はないということなのでしょうか? では、無意識であることにどのような利点があるのでしょう? もし私が苦痛からの自由のために快楽を差し控えなければならないとしたら、私ならどちらも取っておくでしょう。」A「苦痛と快楽の彼方に至福があるのだ。」

 

Q「無意識の至福に何の価値があるのでしょうか?」
A「意識でも無意識でもない、実在だ。」

 

Q「意識へのあなたの反対理由は何でしょうか?」
A「それは重荷なのだ。身体とは重荷だ。感覚、欲望、思考、これらはみな重荷なのだ。すべての意識は葛藤だ。」

 

Q「実在は真の存在、純粋な意識、無限の至福と描写されています。それが苦痛とどう関わってくるのでしょうか?」
A「苦痛と快楽は起こる。だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。人生のなかでも、しばしばあなたは傷つけることで喜び、喜ばすことによって傷ついている。苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。」

 

Q「これらはみな疑いなく、たいへん興味深い話です。しかし私のゴールはもっとシンプルなものです。私は人生において、より多くの快楽とより少ない苦痛が欲しいのです。どうすればいいのでしょうか?」
A「意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。」

 

Q「これらすべてが私にとって何だというのでしょうか?それは私を満足させてはくれません。」
A「あなたは誰だろうか? 誰が不満なのだろうか?」

Q「私は苦痛と快楽の人間です。」
A「苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。苦痛と快楽は、至福の海の波の頂きと谷間だ。その底深くには完全な充足があるのだ。

 

Q「あなたの体験は本当に不断のものでしょうか?」
A「それは時を超えた、不変のものだ。」

 

Q「私の知っているのは欲望と苦痛への恐れだけなのです。」
A「それはあなたが自分自身についてそう考えるだけだ。やめなさい。あなたが習慣をただちに打ち破れないなら、あなたが慣れ親しんできた考え方に注目し、その偽りを見破りなさい。習慣を問いただすことはマインドの義務だ。マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。そして外側にとどまりなさい。」

 

Q「正直なところ、私にはすべてがマインドによってつくられたという説明が信頼できません。目が手段であるように、マインドもまた手段にすぎません。あなたには知覚されたものが創造されたものだと言えますか?私は窓のなかにではなく、窓を通して世界を見ます。私たちに共通の基盤があるために、あなたの言うことはすべて筋が通って聞こえますが、あなたの基盤が実在のなかにあるのか、マインドのなかにだけあるのか私にはわかりません。ただマインドに映るものとしてとらえることはできます。それがあたにとってどんな意味をもつのか私にはわかりません。」
A「あなたがマインドのなかに立場を置くかぎり、あなたは私をマインドのなかに見るだろう。」

 

Q「言葉は理解するために何と不適切なのでしょう!」
A「言葉なしでは、理解する何がそこにあるというのだろうか? 理解する必要は誤解から起こるのだ。私の言うことは真実でも、あなたにとっては、それはただの理論となってしまう。どうすれば、あなたはそれが真実だと知るようになるだろうか? 聞きなさい、覚え、熟考し、視覚化し、体験しなさい。あなたの日々の生活においてそれを生かしなさい。私に対して忍耐強くありなさい。特に自分自身に対して忍耐強くありなさい。なぜなら、あなたがあなたのただひとつの障害だからだ。道はあなたを通ってあなたを超えていく。特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、あなたは私が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表してきたことが、あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだということがわかるだろう。」

 

 

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実在とは何か

まずこの質問は「実在とは何か?」というところからはじまります
その話の中で質問者が「龍樹の四重否定」という概念のことを喋っています


「これでもなく
 それでもなく
 その両方でもあり
 そのどちらでもない」

 

 …

 

 「これではない
  それではない
  その両方である
  その両方ではない」

 

 

 …

 

これは全否定をあらわす文章として、とてもわかり易いと思います
否定が4つ並んでいますね

 これでも
 それでも
 その両方でも
 その両方でないことでも
 ない

 

示唆に富んだ文章があまりにも多くて読み切るのが大変難しい文章です
人によってはこのやりとりだけでも目覚めてしまうのではないでしょうか?

例えば、皆さんはこの文章が理解できますか?

 「 もしあなたが愚かだということを知っているならば、あなたはまったく愚かではないのだ。 」

 私は、意味は分かりますが、理解することはできません

例えば 
「数学の分からない学生A」が
「ああ、私は数学を知らないんだ」と理解した時
「数学の分からない学生ではなくなる」ということですよ

いやいやどう考えても「数学は分からないまま」
ですよね?うーん...

 

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内容が濃すぎて消化不良を起こしそうです
もっと詳しく知りたい方はニサルガの本を読んでみてください

10月22日の夢

お早うございます 今日は記憶がハッキリしていません

とてつもなく恐ろしい怪物と会っていたような印象が残ってます

怖いというより真っ黒な炭の中にいるようでした

10月21日の夢

お早うございます アキラです 今日も続けて夢をみることができました

内容は、戦いというか怖いものから逃げているという感じでした

しかし、襲われてるような雰囲気ではなく「対抗しているが力が不足している」

といった希望のあるものでした 深夜に書いたメモをそのままコピーしておきたいと思います

 

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獣に追われていて脱出をする夢 Lの世界の主人公の小説家がでてくる 私は仲間と共に行動している 確認できるのは 結婚している夫婦が2ペア 戦闘は2回あった

2回めは畳が縦に並んでいるような細さの、白い洋風の家を脱出しようとしていた

メインとなる仲間のほかにも多くの仲間が点在しているようで、「これはまるで大家族だな」と私は感じた

宇宙全史 質疑応答1 復習

質疑1から気になった内容を抜粋していきます

 

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・私たちはすべて実存から発した存在である
・上位の存在は、下位の存在を簡単に開放することができる
・しかし、そのためには下位の存在にバランス(中庸)が必要
・バランスが欠けた状態で、覚醒を果たしてしうと、計り知れないカルマを負う可能性がある
・逆に言えば、人類が中庸という形質を獲得することができれば、覚醒した存在によって一気に飛躍することができる
・中庸とは、周囲の影響とバランスを取りつつ自分の中心となる場所を定めること 外の影響を受けることがあっても決して自分を失わず、道を外れないということ
・魔神界、天神界という世界があり、魔神界にはアンドロメダがいる
・仏教の真髄は祈りにある
・世界人類平和の祈りは地球霊魂の統一の場から降ろされたもの

ドンファンが提唱する4つの形質
1.忍耐:耐え忍ぶということではない 待つということ
2.ユーモア:永遠と向き合うとき平常を保つために深刻にならないということ
3.狡猾さ:ずるさではない 明晰性
4.非情さ:冷酷、無情に陥らないための非情 情を知って情に流されない

これを獲得することで人は、旅人から戦士になる

 

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復習

・私たちは地球と約束をした
 それは「幸せになります」というもの
阿頼耶識界(6次元)の上に、地球の集合魂の統一の場(7次元)がある
・今地上では「愛」という概念が完全に歪んでしまっている

 

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拾いきれていない情報がまだまだ沢山あります 全てを知る日は来るのでしょうか

10月20日の夢

こんにちは アキラです 5日ぶりに鮮明な夢を見ました 明晰夢ではありませんでしたが、細部までフォーカスできました 詳細な夢でした

 

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 港町のような場所で、海のすぐ側にある道を私は歩いている 横には祖母がいる リアルの祖母と見た目は全く同じだった 小さな商店を訪問する 祖母は「私に商売を教えて欲しい」と店員に頼んだ 私は恥ずかしがりながら教えてください!と子どものようにお願いした 店員は細身の女性である 顔見知りではない 私は伝票の書き方や注文書の発注など基本的なことを教わった 注文書をのぞきこむと、それには矢印が大量に書き込まれていた

~場面変更1~

芸人のカンニング竹山さんにそっくりの経営者と私は食事をしている 彼は私と少し似た考えをしているようで私は「分かってもらえるなんて、なんて幸せなんだろう」と感じた 彼は仕事の話をするときは厳しい顔つきだ 私はまともに働いてないことを責められて「食事はロクに摂っていない」と言う 理由はわからないが終わり際に飲んだコーンスープ?が印象に残る

~場面変更2~

私は10人くらいの子どもたちと混ざってサッカーを遊んでいる さきほどの竹山さんも応援席から激を飛ばしているようだ(参加はしていない)
虹色の輝きを発しながら??私はサッカーを楽しんでいる

~場面変更3~

私は5人の人間を眺めている 自分自身は見当たらず、居るのかどうか分からない

5人は固有のカラーリングの印象を発している

1.眼鏡の男 青色 スーツ
2.快活な男 赤色 革のジャンパー
3.ミステリアスな女 黄色 ふわふわとしたロングスカート
4.女の子ども 緑色 背がかなり低い
5.灰色? テレビの砂嵐のように不明瞭 楕円形の丸い形をしている

 

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目覚めてからは『失敗した自分を愛する』
『失敗という概念は存在しない 自分という存在を愛する』そういった感覚が全身に広がった
これは夢を反芻して、何度も思い出している時に起こった

 

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数日間不調で夢が見れていなかったので、はっきりと記憶に残る夢を見れて良かったです

また現実で考えていたことや覚えていたことが夢の中に強く反映されていました

1日前や2日前に考えたことが夢の中にあらわれることはあまりなかったと思います

当日読んだニュース記事でインタビューされていた人がそのまま夢に登場していました

また18日に得た『私はオカルトが本当に好きなんだ』という気付きが夢の中でも再現されていました

普通なら顕在意識と夢の間にはギャップがあるのですが、あまりそれがありませんでした

自我と魂の距離が近くなっているのかもしれませんね

 

 

・・・

中庸という感覚を大切にしていきたいと思います?

自由な時間がほしい

還りたい